Bravo !!! 日系カナダ人
カナダで出会った実に多くの日系カナダの人たちの中から、The late Mrs. Hide Hyodo Shimizu (1908-1999)を紹介します。前半では第二次世界大戦前の日系カナダ人について少し書きます。少々長いですが、当時の環境を理解していただければと思います。
あ最初にご注意申し上げておきますが、これは日系カナダ人を取材した記録ではありません。また、学術研究でも報告でもありません。私が個人的に見聞きした内容をまとめたものです。個人的なメモにすぎませんから正確性は保証できません。ブログのタブーである長文も長文、ダラダラ長文です。
1.戦前の日系人達 カナダ ブリティッシュ・コロンビア州 バンクーバー市
イギリスの新天地(コロンブスの土地)という意味のブリティッシュ・コロンビア州(BC州)は、カナダ西端に位置し太平洋に面していることもあり、昔は白人種の最後の砦という雰囲気が残っていたようなところです。(近年、中国系やインド系移民が大量に増えて状況は変わっているようです。)
あ太平洋戦争前の1940年代のバンクーバー市では、日系人の多くは、パウウェル ストリートに肩を寄せ合って暮らしていたそうです。いわば、日本人町ともいえる地区でした。経済的に安定した暮らしを夢見てカナダに移民し、誰も彼も一生懸命に働いていました。しかし、日本の中国への侵略などを契機に、日本と北アメリカ(米国・カナダ)の外交関係が悪化し、日本から移民してきた人達に世間が厳しくあたるようになっていきました。当時の日系人たちは複雑な思いで日々暮らしていただろうことは想像に難くありません。白人種が殆どであった当時のバンクーバー市は、一歩パウウェル ストリートの日本人町から出ると冷たい視線を浴び、冷淡な態度をあからさまに向けられていたと思います。
あ戦前の、カナダ永住権を持つ日本人一世や二世から構成される日系カナダ人社会は、しっかりと社会的にも根を下ろしていて、白人社会への浸透もある程度は進んでいました。それでも、選挙権がないとか、職業に制限があるなどといった差別を受けていました。また、日系一世と呼ばれる人たちは漁業や林業に就く人も多く、その他にも洗濯屋などの自営業をして一日 12 時間以上も働く日常であったとのことです。
あ太平洋戦争が始まる前は、日系家族の中でも日本との繋がりが大切だと考えた人達は、子供を日本に送って教育を受けさせることも珍しくありませんでした。他方、パウウェル ストリートから出て、積極的にカナダ人の社会へと入っていく家族もいて、いろいろだったようです。
あ太平洋戦争が始まる頃には、カナダやアメリカの太平洋岸へ、日本軍が気球爆弾を飛ばしたりしていたため、日本に対する恐怖感がつのっていきました。(・・・当時の日本は、現在の北朝鮮のような存在に映ったことでしょう。満州事変や挑発的な軍事行動を繰り返したり、国際連盟の勧告を無視していました。日本だけでなくヨーロッパではナチスドイツが存在していましたから、世界は大きな恐怖の中にあったようです。・・・)このような状況になり、カナダもアメリカの政府も反日キャンペーンをしました。当然一般の人達の日本への感情も険悪になっていきました。このころになると、アメリカの良心を代表する有名なナショナル・ジオグラフィックという雑誌も、日本を指してJap と記載していたくらいでした。右の写真は1945年12月号、クリックしてください。 現代からは想像もつかないほど日本への感情は悪くなっていました。日本からビジネスや留学でカナダに居た人達はもちろん、本来日本とは直接関係ないはずの日系人たちもJap のスパイというレッテルを貼られていました。一部では、こんな状況だったようです。
2.太平洋戦争突入と日系人
真珠湾攻撃による太平洋戦争への突入と同時に、日系人に対する排斥が公然と始まりました。奇襲攻撃という開戦でしたから、連合国には卑怯者と映り、日本への非難が一段と激しくなったのも仕方のないことでした。太平洋側に住んでいたふつうの市民には、戦争はヨーロッパ大陸でのこと、遙か<遠くの出来事であったはずが、急に身近になり、日本だけが敵国でした。
あカナダもアメリカも日系人への差別が強まり、外出が容易でなくなったり、やがてバンクーバー市では日本人や日系人に対してだけ戒厳令が出されました。日系人が白人のキリスト教会に行っても断られるという状況になり、ついには、州政府が日系人は海岸線から200マイル(320Km)離して収容する決定をしました。こうした日系人の取り締まりに対して、アメリカでもカナダのバンクーバー市でも差別に抵抗して、日系人によるデモや乱闘騒ぎも起きるようになりました。
あ1942年、BC 州政府は、日系人に対して48時間の猶予でバンクーバー市の Hastings Park の家畜競り市場へ集める指令を出しました。皆、身の回りのものをトランクに詰めて、家も何もかも置いて行かざるを得なかった状態でした。後に残した家や漁船、トラックや自動車といった財産はすべて没収され、州政府が勝手に処分してしまいました。(アメリカでは、戦後、財産は返却されました。)日系人はスパイという wartime hysteria からカメラやラジオまでも没収されました。
あ家畜競り市場から、汽車でBC州の奥地の廃坑になったゴーストタウンへと送られました。ただ、このとき隣のアルバータ州南部や東部カナダに行くことを希望すれば、収容所へ行く必要はありませんでした。しかし、かなり厳しい条件がついていたようです。多くの家族は、7カ所ある収容所のうち、どれかを選んで行くことなりました。
あ中には、日系人を対象とした戒厳令下でバンクーバーの町を夜歩いていたら、警察に呼び止められて、あっという間に東部のオンタリオ州へと送られてしまい、道路工事の強制労働に就かされた人たちもいました。このときの給金は、一日 25 セントで監獄より悪かったと述懐していました。(参考サイトはここ)
あBC 州の奥地に追いやられた日系家族は、ロッキー山脈の麓で、鉄条網で囲まれたバラックの狭い収容所で厳しい冬を経験させられました。この時期は、東部カナダに行った人たちも、まともな仕事には就けず大変な苦労を強いられ、学生たちも下宿捜しで何十件まわっても “You are enemy” と断られたそうです。苦労話の種が尽きない数年間でした。こうした戦争中の苦い経験から、カナダへの恨み辛みで悪いしこりを残した日系人も少なからずいたようです。
あアメリカでは、日系人も希望すれば軍人として収容所を離れることもでき、日系人で結成した部隊がヨーロッパ戦線で活躍して勲章を受ける人達もいました。カナダ政府はイギリスからの強い要請にもかかわらず、なかなか軍役に志願しても受け入れてもらなかったそうです。戦争も末期になって、兵隊が不足気味になり、ようやくカナダでも日系人を軍隊に受け入れたと聞きました。
3.艱難を乗り越えた日系カナダ人達
そうした状況から何十年もたって、私がカナダで出会った日系人たちの多くは、日系カナダ社会の中でも前向きな考え方をする人達でした。また、収容所にいた頃はまだ小さい子供時代で、楽しい思い出を語る人がほとんどでした。もちろん親たちにすれば、バラックに二家族も押し込まれて大変だったのですが、子供はそこまで考えずに過ごせたのでしょう。あるいは、関係ない人に話をしても仕方がないと考えて、私にはつらい話をしてもらえなかったのかもしれなせん。しかし最後に示した本などを読むと、私でもある程度の推測がつきました。
あ収容所では、日本語による教育は一切なく、日本語の使用もままならなかったのですが、日本語でないと軍や政府の命令が、主に一世達に行き届かないことから、日英両国語の新聞の発行が認められるようになりました。この名残は戦後も長い間続き、コミュニティの新聞で古いものはこの形式をとっていました。戦争中は、軍の検閲もあり内容は全く同一でしたが、戦後はそれぞれ内容は違っていきました。
あこうした移民してきたカナダ人への強制収容は日系カナダ人にだけで、ドイツ系移民やイタリア系移民には適用されませんでした。このことがカナダ民主主義の歴史の中で汚点となっています。
3,戦争がおわりました
やがて戦争が終わり、収容所を離れるときが来ましたが、バンクーバーへ戻る人達や、これを機会に東部カナダのオンタリオ州やケベック州に行く人達などいろいろでした。しかし、英語が不自由な一世達の中には、政府に言われるままに書類にサインしてしまい、意思に反して日本へ強制送還される人も出てきました。BC州の言い分は、「我々はかわいそうなことをしたので、祖国へ送ってあげましょう。」という人種差別に基づいた大変馬鹿にしたものでした。もちろん数年後には撤回されました。
あ戦争を境に、いわゆる日本人町はカナダから消えたようです。アメリカと違い人口も少なかったこともあるでしょう。それよりも、日本人として固まっているよりも、カナダの社会へと入っていくことを選択したようです。二世三世達は顔つきも日本にいる日本人とは幾分異なります。戦後は、カナダ人と全く同じ普通の教育を受けたり、家庭でも日本語をほとんど使用しないことや、戦時中日本との交流が全く途絶えたこともあり、二世三世になると日本との繋がりは希薄になり、白人社会への浸透が急速になりました。
あさらに、戦後の日本は、日米協調路線で、しかも経済の発展がめざましく、優れた工業製品の浸透などにより、日系人に対する感情も戦前とは遙かに違うものになっていったようです。戦後は、高い教育を受けた優れた二世、三世が現れて政府の要人になったり、経済界で活躍したりと、社会の各方面でカナダ人として活躍し出しました。このことは特定の人種を対象とした差別に対する反省と、優れた人は人種に関係なく認めるという北アメリカの社会や文化と深い関係があると思います。
なぜ、戦後、急に日系人が活躍しだしたのか、ある三世に聞いたことがあります。返事は、一世達も優れた人達は多いが、能力を生かす機会が制限されていて、才能を発揮する場がほとんどなかったとの返事でした。その通りだと思います。
4 Mrs. Hide Hyodo Shimizu
私が出会った日系カナダ人のなかでも特に一人の女性を紹介します。彼女はHide Shimizu、旧姓をHide Hyodo という日本名を持つ日系二世です。現在はトロント市にある墓地で静かに眠っています。父親は太平洋航路の船員だった人で、社交的でカナダ人とも気さくだったそうです。一家は日本人町には住まず、郊外の白人種に混じって暮らしていました。母親は、教会の活動に一生懸命で、困った人達を助けることに奔走していて、家の中のことは八人兄弟の長女であったHideに頼っていたとのことです。当時としては全日制の日本人学校へ通わせる家族が多い中、父親はカナダでは日本語は要らないという考え方で、子供達はカナダ人と近所の学校へ通っていました。近所との関係もよかったようでした。このことが彼女の人生に大きく影響したようです。早い時期から、カナダの世界がどうなっているのか理解していた彼女は、やがてカナダにとっても日系人にとっても貴重な存在になっていきます。
あ彼女は、教師として身を立てるべくブリティッシュ・コロンビア大学へ行き、卒業する予定でした。一年で大学を辞め教師の養成学校へと移り、1926年に教員養成学校を修了しました。しかし、戦前は人種差別から、日系人は教師への道が閉ざされていたため、教師にはなれませんでした。歴史の不思議な巡り合わせで、バンクーバー市の北にあるスティーブストンという町の学校では、漁業や林業に就いていた日本人の子供達が現地のカリキュラムではどうにもならず困っていたため、例外的に日系人教員として依頼され、先生の仕事に就くことになりました。日系人として最初の教師となりました。最初の日の朝、教室で「Good morning boys and girls」と言ったら、「Good morning Miss Hyodo.」ではなく、「Good morning boys and girls」とそのまま返ってきたので、英語だけでなくカナダのことも全く理解していないことを直感し、いろいろとカリキュラムを工夫をしたとのことです。それと同時に、これを機会に父親が要らないと言っていた日本語にもつき合わされることになりました。
あ彼女のコミュニティでの活躍は、教会の奉仕活動に精を出していた母親の影響もあってか、早い時期から始まっていました。教会などの活動の他にも、彼女の存在の大きさを示す出来事の中に、戦争前(1936年昭和11年)に、日系カナダ人の参政権について日系社会の代表(delegation of four)の一人として、女性ではただ一人、首都オタワの国会へ送られています。まだ28歳でした。
5.今子供たちに教育の機会を与えなければ将来に禍根を残します
子供の頃からカナダ人との親交も厚く、教会の活動などを通して日系人社会以外にも活躍していた彼女も、太平洋戦争中はゴーストタウンへ送られました。ゴーストタウンへ行くまでの間、他の日系人とともに Hastings Park 家畜市場の収容所に収監されました。彼女は、収容施設の中で、放置されて駆け回っている子供達を見て、学校を作らなければいけないと考え、知り合いの白人や教会へ手配して、使い古しの教科書を集めて教室を始めました。収容所と Steveston の学校とは掛け持ちしていて大変な時期だったと話していました。
あ彼女の教師としての情熱はBC州のゴーストタウンへ行っても変わることなく燃え続け、白人の友人達を通して収容所の外界からの手を借り、軍や政府と交渉し、7カ所の収容所に学校を開設するとともに、教員となる人たちの募集と養成、カリキュラムの作成にと駆け回りました。さらに、各学校を回り監督管理しました。このときに作った収容所の学校で学んだ子供達の中には、戦後カナダの社会で活躍することになる多くの優れた人達がいたことはいうまでもありません。
あ日系コミュニティ全体が逆境ともいえる中で、現状をよく認識した上で、日系人社会のために自分ができる選択肢の中から最善のものすなわち教育を選びました。恨み辛みを言う暇があったら、教師として自分ができることを実行することを選択しました。
6.戦後は日系コミュニティのリーダーとして
戦争が終了してからは、トロント市へ出て、教会や地区の活動を通して、常にコミュニティのリーダーとして、日系社会への貢献が続きました。やがて、1948年40歳のとき、彼女がメンバーだった日系人の教会で牧師をしていた清水牧師と結婚しました。牧師は先妻を亡くして再婚相手を捜していましたが、彼女に白羽の矢が当たりました。牧師の妻として、コミュニティのリーダーとして、忙しく東へ西へと活躍していたことはまちがいありません。
あ私が出会った頃は1980年でしたが、清水牧師はすでに亡くなっていましたし、子供達もみな独立していて、家には一人で暮らしていました。彼女は、いわゆる男勝りのおばさんではなく、外見は昭和皇太后に感じの似た印象でした。穏やかな人柄でした。しかし、コミュニティのリーダーとして、また公式の意見を求められる時は、格調高い英語でカナダ人として発言していました。政府に対しても対等にやっていました。日系二世は、皆英語は話しましましたが、社会に対して向かう時は、やはり、格調の高い英語を話さないと相手にしてもらえません。
あこの頃は、日系人の戦時中の補償問題(redress)などに積極的に関わっていました。彼女に時間があるときは、気楽に良く訪ねていきましたが、いつでも手を休めることなく、ラジオを聞きながら編み物をしたり、コミュニティの資金集めの桜などを作っていました。いつでも誰か必要な人のために体を使っていました。私にも、もっと世の中に役に立つような価値のあることをやりなさいとハッパをかけていました。
こうしたコミュニティへの絶えざる貢献や戦時中の収容所での活躍からオーダー オブ カナダ勲章を贈られ、日本政府からも勲章が贈られています。カナダ人の誰もが、当然のことと受け止めたことは言うまでもありません。
7.私が思い出す Mrs. Shimizu
出会った当時、私は彼女がそんなに偉い人だとは知らずに、時折招待されると何も考えずに、喜んで出かけたものでしたが、多くの場合、リビングルームにはコミュニティのリーダーや日系社会で活躍している大学教授をはじめ日系カナダ人の著名な人が居ました。もちろん大事な話の時ではなく、お茶の時間というか、そうした歓談の時でしたが、彼女に近い人達でさえおいそれとは会えない人達の話を聞く機会があったのは大変に光栄でした。そうした交流を通して、いつしかカナダの民主主義の考え方を学んだり、カナダの文化を知ることができました。優れた人達にとり、私は馬鹿でのんきなので気が楽だったのかも知れません。
あ彼女はTVをほとんどつけていませんでしたが、政治討論会やアイスホッケーの試合は見ていました。カナダにはニュース専門の局をはじめとして、ラジオ局が良い番組を提供しているため、TVよりラジオをつけて仕事を続けているようでした。
あ彼女は、誰からもヒデとファーストネームで呼ばれて、親しまれ、尊敬されていました。私はついぞ彼女をヒデと呼んだことはありません。彼女が、特に公式の場に出るときに、自然ににじみ出てくる尊厳を何度も近くで体験したためでしょうか。ミセス シミズとしか言いませんでした。また、彼女を尊敬している三世達も彼女にはミセス シミズと呼んでいました。
あ彼女は自分の主張を通すのではなく、説得する人でした。何かのテーマで話をした後で、次の日かその次の日に改めて意見が書いてある手紙をもらうことが何回かありました。大変に忙しく毎日を送っている人ですから、走り書きとはいえ大いに恐縮しました。
あ年齢を重ね、やがて養護施設へ入りましたが、コミュニティの活動は続けていました。私も時々訪ねていきましたが、身体的なことはともかく、頭脳が衰えているという印象は全く受けませんでした。このころは筆談によっていましたが、彼女の早い手書きを読みとるのに苦労したことも懐かしい思い出です。
彼女からは、コミュニティの活動などいろいろ示してもらいました。しかし、単に知識に終わり、彼女が期待した実践活動には全く結びつませんでした。私の大きな恥でもあり汚点です。どんな時代でも、どこにいても、少しでもコミュニティの役に立ちなさいといっていた Mrs. Shimizu の表情が、今でも目の奥に焼き付いています。若い頃からコミュニティのリーダーとして、優れた人達と交流があった聡明な人ですから、その鋭い観察眼は、私はただ見てるだけで行動力がないので何も期待できないと見抜いていたはずです。
8. I cannot make everybody happy
コミュニティのリーダーとして、常にいろいろと会議や活動家として動いてきたり、まとめ役となったりしていたからでしょうか、私には時々こんなことを言っていました。 「民主主義というのは、一人一票です。どんなに大きな権力を持っているリーダーも会議に参加していて投票権のあるメンバーも平等に一票という同じ権利を持っています。いろいろな人がいろいろな意見を持ち、主張することはできます。ただ私はそうした意見に耳を傾けることはできますが、一つのコミュニティの方針や決定事項としてまとめなければならないときには、誰も彼もが満足できるような決定や決断を下すことはできません。不可能です。私の意見が通らないからといって、コミュニティへの活動をやめたりできません。他のメンバーも自分の意見が通らないからといっていつまでもネガティブでは前進は望めないでしょう。」コミュニティの活動をしていると意見がぶつかり合うことも多いでしょうが、彼女にはまとめ役としての期待も大きかったことでしょう。
9. Anger does not solve anything
小説のObasan (失われた祖国)を読んだ後で、Mrs. Shimizu に聞いたことがあります。
もし私が、戦争前のバンクーバーにいたら、きっと政府のやることに怒り狂ってデモに参加して騒いでいたに違いない。とても学校のことなど発想すらできない。なぜあなたはそうできたのか、と。彼女の答えは、
あ『(日系一世を含め)日本人 は一般的に考え方がネガティブで後ろ向きです。デモなどしても何の解決にもなりません。今、現実に目の前で起きているこの気狂いじみた事態は、やがて終末を迎えることでしょう。しかし、その日が来るまで、私の周りで動物のように駆け回っている子供達を見放してはおけませんでした。教育は当然の選択でした。ちゃんとした教育を受けずに成長したら、子供達の将来に必ず悪い影響を残します。”Anger does not solve anything.(怒りや憎しみでは何も解決しません。)” 常に、前向きにポジティブに生きていくことが大切です。』
あまた、戦後40年近くもたってから、日系人への補償問題(redress)が出てきたことについて質問したときは、『補償問題は戦後すぐに始まったけれども、誰も彼も日々の生活に追われて、子供も育てなければならず、それどころではなかった。今になってやっと怒りの感情がわく余裕が出てきた。”Now we are angry” 』と言っていました。戦後何十年も経って、三世達が活躍する時代になり、カナダの民主主義や法律的な手続きなどを身につけた人達が、何がフェアなのか見極め、政府とも対等にやりとりできる体制が固まったこともあるでしょう。そうした中でも、彼女の先駆的な役割は光っていました。特に、女性として活躍したことは、カナダ女性の歴史の中でも優れています。カナダの女性の地位を向上させた一人として、すでにカナダの歴史の中に織り込まれています。
あ彼女は、1999年8月に亡くなりました。葬儀には出席できませんでしたが、何人もの友人から手紙やメールでそのときの様子を知らせてもらいました。葬儀の参列者は大きな教会がいっぱいになるほどであったことは想像できました。政府関係者をはじめ著名な人達が多くいたことも想像できました。出席した友人によると、誰もかれも、「どうしたら、一人の人生でこんなにたくさんの功績を残すことができるのだろうか。彼女は、何人分もの人生を送った。」と思ったそうです。
人間が集まって作り出す大きな時代の波は、個人の持つ力を飲み込んでしまいます。私の両親は、戦争中は太平洋をはさんで反対側の満州にいました。苦労の末引き揚げてきた親からは、小説の“人間の条件”に出てくるような話を、生活に追われる日々の中でよく聞かされていました。何十年かたち、太平洋の反対側のカナダでも時代の波に飲み込まれた人たちがいたことを知りました。
私がカナダで出会った二世や三世の人達は、収容所を出てからも、過去の艱難を恨みとはせず、カナダ社会へカナダ人として挑戦を続けている人々でした。多くの人達がカナダ人として活躍している姿を見ると、その人達の人生は、過去のその時その時だけを見ていると、苦しく惨めなときもありますが、常に前向きの姿勢で進むと、結果が大きく違ってくることを歴史が示しているように思いました。
10. 参考資料
Obasan by Joy Kogawa
Metamorphosis Stages in a Life by David Suzuki
They call me Moses Masaoka by Mike Masaoka
その他多数
インターネットでさがせる Hide Hyodo Shimizu それと日系カナダ人の戦争中の話
YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rlYLk_L6Gww
100 Canadian Heroins ここです。 Mrs. Hide Hyodo Shimizu は最後の方に出てきます。
YouTube カナダ CBC が制作した TV 番組です。30分もありますし、字幕もありませんが貴重な資料です。